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===========================================  ペンフェス参加作品 =====
すいようせい
(この作品は共作超短編の中からリクエストに応じて  水溶性)#30 という作品を別々に中編化したものです。もう一つの作品は  こちら


--------- 1 -----------

 田山良太25歳。名前の通り、日本の標準的男子からかけ離れていて、大学院在籍中に助手に採用されるほど優秀であり、かつマスクも極めて甘い優男風の青年である。老教授の秘蔵っ子でもあり、博士号取得の暁には助教になることが約束されているオイシイ男だ。もっとも、標準的男子からかけ離れているのはスペックだけではない。残念な部分も同様で、具体的に書くと長くなるから省略するが、彼に近づこうとした女性のほとんどが1時間でデートの継続を完全に諦めたと説明すれば十分だろう。もしもデートを完遂して再デートを期待するような女性がいたら、それは極めて残念な女性に相違なく、その時点でパートナー失格といえよう。要するに、週一回程度で会うオモシロイ友達としては最高だが、親密にはなりたくない、そんな男である。
 田山は研究の必要なサンプルを採集する為に世界各地を出歩いている。サンプル対象はナメクジ系の動物や多肉植物のように体重に対する水分比率の極めて高い動植物だ。そういう動植物のうち、塩害に強いものを捜しているのである。彼が不思議な体験をしたのも、そんな採集旅行の途中だった。
 彼は、この手のスペックの人間の例に漏れず、いつものように
「なーめくーじ、なめーくじ」
と呪文のように歌いながら熱帯地方の海岸の崖下を歩いていた。ようやく大型のナメクジを見つけ、
「やったー」
と大声を上げた時だった。突然
(ふふふ)
という声が聞こえて来たのだ。きょろきょろするが誰もいない。空耳だろうと思って、ナメクジの方に目を戻そうとすると、またしても
(全く気が知れない)
という、今度ははっきりした英語が海の方から聞こえた。少女っぽい透明で軽い声だ。しかも現地語でなく英語。こんな所を歩く物好きな旅行者は僕だけではなかったのか、と思いつつ、海に目を向けると人影はない。
 このところ寝苦しかったから、きっと空耳がするのかも、と思って再びナメクジの方に目を戻そうとすると、三たび
(そんなくだらないモノに興味があるの?)
という声がする。急いで海の方を振り向くと、霧のようなものが濃く立ち上っていた。さっきまでは普通の海景色だったのにだ。
「えっ!」
と叫んで立ち尽くすや、霧は次の瞬間には消えていた。もはやナメクジどころではない。
 驚きの硬直がから解けるや、立ったり座ったり歩き回ったりして、霧の見えた所を色々な角度から検証するが、なんの変哲もない普通の海景色だ。自分自身に言い聞かせるつもりで
「このところ寝苦しかったから、幻覚や幻聴がするんだろうなあー」
と声に出して、ようやくさっきのナメクジを見ようとすると、またも
(わたしって幻覚なの? 知らなかった)
という声が耳元から聞こえて来た。今度こそ、と思って瞬間的に振り向くと、なんと海から少女が顔を出してこっちを見ているではないか。ただし、声の距離感と全然違う。いや、声もそうだが、こんな所で海水浴(?)をしているのも奇妙だ。波は低いが、だからといって決して海水浴場のそれではない。
 不審を抱いていると、
『あなた、だれ?』
と向うから尋ねてきた。さっきの声と違って30mほどの正しい距離感の、通る声だ。田山は
「僕はここを旅行している者だよ」
とやや大声で答えた。彼女は
『ふーん』
と言ったきり何も言わない。
「君は海水浴かい?」
『私って泳いでいるの?』
質問で質問で返すや、そのまま頭から海のもぐってしまった。その時の見えた水着は・・・横からしか見なかったけど・・・裸?!
 紳士はこんなとき目で追ってはいけない、と思った田山は、無理やり意識をさっきのナメクジに切り替える。ところが、どういう事か、ナメクジは影も形も居なくなってしまっていた。少女の事は気にかかりながらも、そこはスペック通りの男である。ナメクジを捜す事に専念して、5分後、ようやく葉っぱの裏にナメクジをみつけた。さっき見つけたものほど大きくない気がするが、ともかく採集する。といっても日本に送る為ではない。動植物検疫法により、日本に持込むのは極めて面倒なのだ。代わりにベースキャンプで簡単な解析をして、DNA鑑定などはこの国の首都にある大学でやらせてもらう手筈になっている。
(ふーん、なんだか面白そうね)
 さっきと同じ声が耳元で聞こえたので、反射的に振り返ると、さっきの少女が10mぐらい離れたところに立っていた。ゴミ袋みたいなものを体に巻いている。裸なのか露出度の高い水着を着ているのか分からないが、それを曝すのが嫌なのだろう。だが、それにしても、ゴミ袋、しかもシワや色の具合からして、1週間以上は野ざらしだったと思われるゴミ袋を巻いているというのは尋常ではない。最悪、あまり関わりたくない相手かも知れないと田山は思いつつも、彼がこれから向かう方向に少女が立っているので、無視するのも気が引けて
「何かトラブルでもあったのかい?」
と尋ねると、少女の答えは
『なにかトラブルがあったって? ・・・私ってトラブル持ちなの?』
日本人なまりの英語が通じていないのか、それとも相手の英語力に問題があるのか。
「いや、その恰好が気になったんだけど」
と言い方を変えると
『私の恰好って問題なの? どうすればいい?』
 これではまるで就学前の幼児だ。英語のせいとは思えない。外国人は年齢が分からないと言う通り、見た目と違ってまだ子供なのかも知れない。となれば、何処かに保護者なり、それに類する人間がいそうだが、見回しても誰もいなかった。
 そんな田山の様子を無視して、少女は
『あなた、旅行者なのに、観光もせずに、そんなのを集めてるの?』
「ああ、僕はナメクジを集めている」
意外な思いで、田山はそう答えた。今の質問からしても、そしてさっきの水中からの質問からしても、彼女は英語にも理解力にもなんら問題ない。だからこそ、恰好と、恰好に関する応答とが奇妙なのだ。ふうんと相槌を打った少女に
「君はこの近くに住んでいるのかい?」
と尋ねると、更に妙な答えが戻って来た。
『近く? 私って近くに住んでいるの? もしかしたら違うかもね? どうでも良い事だわ。貴方は?』
これはもう、日本人なまりの英語が断片的にしか聞き取れていないからに違いない。そう判断して、田山はゆっくりと、ベースキャンプにしているバンガローの名前を告げた。少女は首を傾げている。ここが潮時と思い彼は再び別のナメクジ探しを始めた。正確には捜すふりだ。果たして願いは叶い、2分ほど後に振り向くと、少女は姿を消し、少女のいた所にはさっきのゴミ袋がうち曝されていた。

 ベースキャンプのバンガローは海の近くの標高10mぐらいの岡の上にあって、近くに日本の2級河川程度の川が流れている。便利で水害の心配のない場所と言って良いだろう。回りは森に囲まれて人家はない。昼前にバンガローに戻った田山は、さっそく午前の採集物を取り出した。午後は何時スコールが来るか分からないので、昼食後はバンガローのすぐ近くの川べりで簡単な実験や検査を行う。水が必要な実験だからだ。
 手製の作業台で作業を初めて1時間ほどしたころ、
(何してるのかなあ)
今朝と同じ声だ。あたりを振り返るが、例の少女は見えない。気を取り直して作業に戻ろうとすると
(やっぱり面白そう)
どうせ姿は見えないのだろうと思って無視すると、
『ぱちゃん』
と大きな音がした。魚が飛んだのだろうか? 思わず川の方を振り向くと
(今のうち)
という声がする。聞き捨てならないと思ってあたりを見回すが、案の定、だれもいない。
「はあ」
とため息をつきつつ、田山が作業台の方を振り向くと、そこにはとりわけ大きなナメクジが横たわっていた。
 妙だな、とは思いつつも、ナメクジはナメクジだし、何かの弾みで膨張したのかも知れないし、降って来たのかも知れないから、不審点が無い事を確認して、作業を再開した。まず注射器を当てて体液を取る所からだ。針を刺す。すると、突然
(痛い!)
という声が耳元からしたので、びっくりして注射器を外して振り向くと、いつの間にか川霧が立ちこめていた。
(カタチになるって、こんなに痛い事だったのね)
近い距離から囁かれる意味不明の声は、記憶にあるものだ。そう思った一瞬の意識の空白の間に、川霧は、それが幻覚だったかのように消え、その代わりに川べりの木々に隠れるように少女が立っていた。午前中出会った少女だ。
『あなたは誰?』
7〜8メートルほど離れた彼女は、脇腹を痛そうに押さえている。
午前と同じ質問だが、作業台の前に立った田山には答えがある。
「うーん、なんと説明したら良いのか。大学院生とは言えないし、研究者にはまだなってないし、身分はアシスタントだけど、今やっている事は教授のアシスタントではなくて自分の研究だし、、、」
次第に相手への説明を忘れて、自分自身への説明の為に悩み始めるのはいつもの事だ。もはや少女を見ていないし、声も届かないほどに小さい。だが、少女のほうも平気で脈絡の無い質問を続ける。
『その手に握っているのって何?』
「採集用の注射器、これで体液を取って分析に回すんだ。DNA鑑定とか成分分析とか、、、」
 相手が理解しているかどうかおかまいなくテクニカルな説明を始める。さっきと同じパターンで、もちろん相手を忘れている。この男はデートでも同じ事を平気でする。
『なんでそんな事をするの?』
 とうとう『何故』攻撃がやってきた。話が分からなくなった女性の多くが発するこの攻撃に曝されると、大抵の男は憔悴する。というのも、どんなに丁寧に説明しても、分からないものは分からないからだ。高校理科や中学理科を大学受験と共に忘れるような連中に、第一線の知識を簡単に説明しろというのが無茶な要求なのだ。やっている事の概要については一般向けの説明の言葉を持っていても、細かい部分の説明の言葉を持たないのが普通の人間だ。にも関わらず、中には『何故』と言い続けて、自分に理解出来なかったら怒り出す人もいるから、世の男達は連続『何故』攻撃を恐れる。もっとも、今の場合は田山が確かに悪く、そういう男に限って、女が理解出来ない妄想的な答えをする。
「地球をリフレッシュさせるためだよ」

 田山がナメクジ系の動物や多肉系植物を採集するようになったのは、元はと言えば世界各地の砂漠化の進行を食い止める事にあった。砂漠化対策に一番重要な事は本来なら土壌の再生である。一般人が直感的に思いつくであろう真水の確保は、サハラ砂漠のような、極端な乾燥による自然由来の砂漠の緑化には有効でも、農業などの人間活動のせいで進行している砂漠化対策にはそこまで有効ではない。というのも、近代現代の砂漠化の主因は、土壌の地力や土壌そのものが失われる事にあるからだ。だから、土壌の回復は砂漠化問題に携わっている科学者の多くが頭を捻っている問題だった。しかし田山は、そういうメインストリームには興味が無かった。少々変わり者であるが、彼はそういうスペックの男である。そのくらいでなければ、環境問題の中でも温暖化問題や森林・水問題で無く、砂漠化問題という2000年代的にマイナーなテーマを選びはしないだろう。
 砂漠化は温暖化よりも遥か昔から問題となっており、1994年に締結され既に190ヶ国が加盟しているUNCCD(国連砂漠化対処条約の連絡センター)によると、全世界の耕作可能な乾燥地(草原等)の1〜2割、即ち日本の面積の30倍(アメリカやカナダ、中国の国土面積の1.5倍)の耕作地で砂漠化がかなり進行している。これは海水面上昇で失われる土地の面積よりも遥かに広大だ。現時点での実害だけでなく、今後予想される実害も砂漠化の方が温暖化よりもはるかに大きい。温暖化の害は海水面が多少高くなる事ぐらいで、農業や漁業への影響に至っては寧ろ生産量が高まるのではないかと言われている程だが、砂漠化は農業生産や水の安定的確保に直結する。
 だが、世の中の研究者やサポーターの数は温暖化問題関係のほうが砂漠化問題関係よりも圧倒的に多い。そのほうが金が出るし、名誉もあるからだ。ICPPにはノーベル平和賞が出ても、UNCCD関係者には何の賞も出ないしマスコミも取り上げない。それどころか、温暖化対策と称して、バイオ燃料開拓や二酸化炭素海中固定化など、砂漠化や海洋酸化を進行させるようなプロジェクトすら大規模に進められている。これが現状だ。なべて予算が大きくマスコミが持てはやす分野は、その分野の本来の目的からかけ離れたハイエナ達が胡散臭い金儲けをするための道具に使われる。そういう彼らをひっくるめて、田山や、彼のボスの老教授は「温暖化マフィア」と呼ぶ。このマフィアには
『温暖化対策は全て正義』
と信じてやまない真面目な連中も多く含まれるから始末に負えない。原子力村のステマに乗せられて、二酸化炭素が光合成の基本要素である事を完全に忘れ、放射性廃棄物よりも二酸化炭素のほうが『毒』だと思い込んでいる連中などがその例だ。
 田山はそんな風潮を毛嫌いする変わり者だけあって、砂漠化の問題でも、主流の「土壌再生」ではなく、一般人が思いつく安易な発想にこそ真理があるかも知れないと考えた。すなわち水の確保である。それを自然にやらせようというのだ。具体的には、海水からの蒸発量を増やして、雨をより多く降らせようという発想だ。
 平時の蒸発量が増えれば、雲が増えて、それによる太陽光の反射率(アルビード)が上がって気温が下がる。同時に低緯度での嵐も減って梅雨のようなしとしと雨が増え、結果的に土壌流出を減らす。同じ温度での雨量の増大は氷河の発達をも促すから、海水面が下がるし、耕作地が増大するし、なによりもペンギンとシロクマが喜ぶだろう。一石二鳥三鳥という訳だ。
 だが、蒸発量を増やすにはどうしたらよいか? そこで田山が選択した方法は、海水の塩分を減らす事だった。塩水の比重が高いのは、電離した塩、即ち塩素イオンとナトリウムイオンが、水分子・イオンと引き合って水分子をよりコンパクトに並べ替え、その結果、同じ質量に対して体積が減るからだ。だから海水の方が真水よりも浮きやすい。引き合う力が強まるという事は蒸発し難くなる事も意味する。だから食塩水の沸点は真水よりも高い。逆に言えば、海水面近くの塩分濃度を下げれば、海は蒸発しやすくなる。
 海の上層から大量の塩分を抽出する技術的な事を除けば、問題点は、塩分濃度が下がる事で海水が一時的に膨張し、海水面が高くなる事だ。最終的には氷河と寒冷化の影響で海面は下がる筈だが、世間を遠い将来なぞ考えない。一時的にでも海面が上がったら、それだけで袋だたきに遭う。というのも、温暖化マフィアが叩くのがその一点だからだ。それを解決する方法さえ見つかれば、技術的な問題点は他人が解決してくれよう。なんといっても、この手の話は、見込が多少ともあれば大量の補助金が出るのだ。
 一時的な海面上昇を押さえ込む方法を求めて、結果的に、田山はナメクジ系の動物や多肉系植物を採集するようになった。彼に言わせてみれば、これらの動植物は、言わば水を固化しているようなものだからだ。このメリットは海水面調整だけでない。水を大量に吸収する動植物を海から砂漠に輸送させれば、それだけで砂漠の水分保有率が高くなる。自分のアイデアに酔ったのも由なきことではない。

 さすがの田山も、これだけの背景を全部説明した訳ではないが、だからといって普通に理解出来るレベルでもなく、田山が説明を終える頃には少女は姿を消していた。少女の不在にようやく気付いた彼が、作業台を見ると、さっきの大ナメクジは姿を消して、ほかのナメクジも逃げる途中だった。
「また、やっちゃったな」
と一人ゴチした彼は、逃げたナメクジを捕まえて作業を続行した。作業に集中すると回りの雑音は一切気にならない。だから、
(へー)
(痛そう)
(そうなのか)
(塩ぐらいならあたしも平気かも)
という耳元の声も全然耳に入らなかっし、川霧が出続けていた事にも全然気付かなかった。

--------- 2 -----------

 翌日も海岸近くで採集を続けていると、小川を渡ろうとしたところで、その上流に薄灰色の大きな物が見えた。小牛ぐらいの大きさで、目を凝らすと、のっそりと動いている。まるでナメクジのように。考えられるのは何かの巣か。慌ててカメラを取り出して、映そうとすると、もういない。代わりに小川が川霧に包まれている。あれっ、と思うや
(怖がらないの?)
という声がして、そっちに振り向いた次の瞬間には、霧は晴れていた。あきらめて、行き先である小川の向う岸を見なおすと、昨日の少女が立っていた。
 体にはビニールのシートみたいなものを巻いている。そういえば、昨日の午後だって何も着ていないような感じだった。服をもっていないのか、それとも習慣なのか。いかに言動が明後日スペックの田山でも気になるところだ。だが、彼にはもっと気になる事があった。さっきの巨大動物を彼女も見たかどうかだ。それを聞かなくっちゃ、と思って声をかけようとすると、機先を制されて
『あなたって面白い人ね』
「それより、さっき、そこで大きな奴を見なかったい? えっと、薄灰色で、動いていて」
『見たのかしら? そんな言い方するの?』
まただ。確かに田山の質問に答えようとしてくれているみたいだが、想定外の内容ばかりだ。困惑していると
『それより、あなた、こちらに来るんでしょ? さっさと来たら』
さっきの巨大動物から目を逸らそうとしてそんな事を言っているのか? だが、あんなものを見た以上、それが見間違いかも知れなくても、確認せずに現場を離れるような田山ではない。
「ここでしばらくさっきの奴を捜す」
そう答えると、
(ふーん、そんなに好きなんだ)
という、例の耳元の声が聞こえて来て、振り向いたら、いつの間にか少女が川のこっち側に渡っていた。距離3〜4メートルといった所だろうか。
「君、その恰好」
『他に無いもの。でも、旅行者に胸を見せてはいけない事ぐらいは知っているから』
初めてまともな返事が帰って来た。どうやら現地に住んでいる人で、普段は裸で過ごしているらしい。熱帯ではそういう地方もあろう。その割に色白なのが気になるが、もしかしたら親がここに移住したのかも知れない。ともあれ、そんな恰好でうろつかれても落ち着かないから、リュックから予備のTシャツを取り出し
「これでも着ていろよ」
と、彼女に差し出して、さっきの巨大動物のいた方向に向き直して足を踏み出した。警戒しながら2〜3歩前に進むと、後ろから
『これ、体に巻けないけど』
という声が聞こえて来た。振り返るとTシャツを横にして、無理やり体に巻き付けようとしている。何が起こっているのか、何が問題なのか分からずに10秒ほど固まってしまった田山だが、もしかしてシャツの着方を知らないのではないかという事に気付いた。有り得ないではない話である。
 上からすっぽり着るシャツと言う概念は、寒い西洋からもたらされたもので、その元祖ヨーロッパですら、昔は開襟が当たり前だったのだ。ましてや、こんな暑い気候で、そんな暑苦しいデザインが流行する筈もない。だから現地人の中には、シャツやワンピースを旅行者が着ているのを見る事はあっても、着た事が無い者がいてもおかしくない。
 試しに、田山は自分の着ているシャツを
「暑いなあ」
と誤摩化しながら脱いで、タオルで汗を拭いて、それから再びシャツを着た。説明調にしなかったのは、彼女にからかわれているかも知れないと思ったからだ。ともかくも、彼がシャツを着終わった時に彼女をちら見すると、既にシャツを着てしまっていた。この早業は、シャツの着方を知らない者に出来ることではない。やっぱりからかわれたんだ、とちょっぴり悔しく思うと同時に、少女の謎にも興味が出て来た。しかも少女の態度は、彼の見かけのスペックに吸い寄せられて接近して来た女性達のそれと全く違う。それも新鮮で興味を引く。
 とはいえ、今は少女に構っている暇はない。裸と言う煩悩要因を消したところで、謎の動物の探索に戻る。と、その時
『捜しても無駄』
という声が近くで聞こえた。思わず振り向くと、少女は田山に触れんばかりに接近していた。気配無く近づかれ、一瞬の恐怖を覚えて身構えると、
『見つけたい?』
と尋ねて来る。どうやら、彼女は、あの動物の事を知っているらしい。秘密なのか? しかも、今の動きを考えると、警戒する必要もありそうだ。最悪、第3者の絡んだ罠かも知れない。それでも、彼の採集者としての本能は、反射的に
「ナメクジみたいだからね」
と正直に答えさせていた。
 それに対して少女は驚くべき推定をした
『水の塊だから?』
昨日の話を完全に理解している! 信じられないほどの理解力ではないか。
「すごい」
田山はすっかり感心してしまった。ここまでストレートな答えを言われると、罠であるかどうかはどうでもよくなる。それどころか、彼女に色々聞くべきだと直感した。だが、彼女の次の言葉は冷酷だった。
『あなたって幻を追うのが好きなのね? もっと実物(real staff)を捜せば良いのに』

 Tシャツを少女に渡したまま彼女と分かれ、採集を続けたあと、バンガローに戻り、簡易食後に川べりに向かうと、彼女が木の叉に座って足をぶらぶらさせていた。さっきのTシャツのままだが、ところどころ濡れている。もっとも、この気候のお陰で、シャツなぞは30分で概ね乾いてしまうから、目を背けるほどではない。
「こんな所で何をしている?」
『何してるかって? 変な質問ね』
いきなり完全理解の逆襲だ。何をしているかは見れば分かる。日本語だと、この質問は「何を待っているのか」という意味も持つが、英語でそのニュアンスは薄い。ともあれ、日本語なまり英語が分かるようになったんだな、と田山は判断した。
「僕に用事かい?」
『今日もまたナメクジ?』
田山は採集した袋を空けて見せた。そこにな多肉植物は数種類ある。エケベリアの仲間(ベンケイソウ科)やベゴニアの仲間(ユキノシタ科)、アロエの仲間(アロエ科)などが作業台の上に取り出された。熱帯とはいえ乾期と雨期がある地方なので多肉植物が存在する。ただしサボテンはない。
『確かに水ね』
 この、僅か3つだけの発言だが、田山はそれだけで彼女に極めて親しい気持を感じた。この子は理解してくれている。そういう思いだ。同輩でも、ここまで簡潔な会話の出来る者はいなかった。

 その後、少女は午後中ずっと作業台から離れなかった。ときおり挟まれる言葉は、時に意味不明で時に核心をついていて、中間的な、いわゆる日常会話的な発言はひとつもない。それどころかお互いの名前を尋ねる事すらなかった。共通の興味の対象を田山が作業台で調べる。それで十分だった。
 田山が相手の名前を気にしないのは、この日に始まった事ではない。特定の対象に興味を持つという性質のほうが、名前なんぞよりも遥かに確実にその人間を特定するからだ。クラスメートですら、その性格や趣味や容貌を先に覚え、名前を覚えるのは最後だった。だから、顔や性格は覚えているが、名前は思い出せないという同窓生が沢山いた。名前とは第3者に捜し人の動向を尋ねる場合には有効だが、それだけの事だ、と田山は思っている。
 夕食の時間となり、社交辞令として
「夕食でも食べて行くかい?」
と田山は尋ねた。
『その後は?』
「データのまとめ」
作業台で書き付けたメモをヒラヒラさせる。
『水じゃないんだ』
そういって彼女は川に向かって去って行った。Tシャツは彼女が着たままだが、この流れで返せとは言えない。彼女にあげてしまったものだと決めて田山は部屋に戻った。
 夕食が終わってメモの内容をパソコンに入力していたところ、
(ふうん、つまらなさそう)
という声が耳元でした。振り返っても誰もいないので、目をパソコンに戻そうとしたその時、窓の外に、白っぽい大きなモノが見えた。何だろうと思ってあわてて外に出るが、いつのまにか真っ暗になってしまったので何も分からない。熱帯の日暮れは釣瓶落としで、バンガローに街頭はないのだ。懐中電灯片手に窓の近くまで行くが、室内の光に慣れた目では何も見えない。
 諦めて部屋に戻ろうとすると、少女が扉の前に立っていた。
「君か。どうしたんだい?」
『私を捜していたの?』
いつものように予想もしない質問で返して来る。
 もっとも田山だって人の事は言えない。普通の人なら、彼女の質問への答えはビジネスライクにはノー、色男ならイエスか、イエスを仄めかせる答えだろう。だが彼は、「捜す」というキーワードから、
【そういえば、明日のなったら彼女に説明の続きをしたり、彼女に大ナメクジについて聞きたい思うかも知れないな】
という気分になっていた。ただし、
【かもしれない】
であって、その時にならなければ分からない。
【でも、おそらくは、彼女の姿を求めて5秒ほど川べりで見回すだろう】
【それは『捜す』になるのだろうか?】
そんな風に、思考は質問の意味からアホウドリの速度で遠ざかっていった。これが田山スペックだ。
 それでも脊髄神経だけは、無駄に活発な大脳細胞から独立しているお陰で、
「えっーとー」
と生返事で時間稼ぎをしながら、ドアをゆっくりを開ける。もちろん、それは事実上イエスと答えているのと同じだったが、この手の誤解は別に田山でなくでも、多くの人間に経験あるだろう。このくらいは大目に見なければなるまい。そこまでいちいち目くじらを立てる女性がいるとしたら、そんな人と結婚する理系は不幸になる。
 考え事をしながら田山がドアを開けると、部屋の中に巨大なバンダイソウ(ペンケイソウ科)らしき多肉植物が鎮座しているのが見えた。直径が1メートルほどあり、まるで蓮の花だ。ほんの数時間前、直径15センチほどのバンダイソウを少女に説明したばかりで、そのサンプルは確かに部屋の中にあるが、それがこんな化けものになる筈はない。
(これなんか素敵?)
耳元で例の声が聞こえ、あわてて振り返ると、そこに少女の姿はみえず、その代わりにびしょぬれのTシャツだけが残されていた。部屋の中の巨大植物は、昨日から何度も起こっている疑似幻覚かも知れないが、手にとったTシャツの感触は本物だ。人影を求めてあたりを見回すが誰もいない。念の為に部屋の中を見直すと、そこに巨大草はなく、少女が田山のバスタオルを巻いて立っていた。
『これ気持いい。貰っていい?』
 冷たいTシャルの感触からすると、我慢出来ずに着替えたと見るべきだろう。ここの気候は、濡れたシャツを着続けるよりも裸の方がマシな蒸し暑さだからだ。慣れないTシャツを彼女に与えた事を田山は少し反省した。からかわれている可能性もあるが、それでも温帯の文化やモラルを、そのまま熱帯に当てはめた自分が愚かだった事には変わりない。頭では理解出来ても、行動は難しいのだ。
 今後も事もあるので、持ってる衣類やタオルから、ここの気候に相応しいもので、かつ脱着の極めて簡単なものを彼女に渡した。彼女は謎の動物を知る手がかりなのだ。それがたとえ幻覚であったにせよだ。彼自身の着る分で不足分が出れば街まで行って買えば良い。

 2人が知り合って10日が過ぎた。
 4日目からは、朝になると少女が小屋の前に来るようになって、昼食と夕食の時間以外は夜まで行動を共にするようになった。夜のデータ整理も一緒だ。その間は、男と女が小さな部屋の中にいる事になる。とは云え、そういう状況は大学の研究室でもしょっちゅうある事で、特に田山の性格から、少女を女性として意識することは無かった。田山にとっては、幻覚のようなものを毎日のように見るようになった事こそが重大事だった。大抵は、採集した動植物の巨大な奴で、それを部屋と問わず川と問わず森と問わず見かける。その際に必ず、あの耳元の声が聞こえた。その一方で、少女は意味不明な発言と聡明な発言を繰り返していた。
 採集が一区切りついたところで、とりあえず滞在国の首都に行く事にした。精神的なストレスの無い筈の楽しい採集旅行の筈なのに、それでも幻覚らしきものが出るのだ。その原因として、過労しか思い当たらない。となれば、今の作業を一旦打ち切る以外の対策を考えつかなかった。出発の準備を整えるにつれて、田山は少女の事が気になり始めた。今までの採集旅行で、これほどまでに親しくなった人はいなかったからだ。日本的あるいは温帯的常識に照らし合わせれば、少女は異常と云えるほどに変わっていたが、彼にとっては最高の仕事パートナーだった。別に手伝う訳ではないが、彼女がいるだけで仕事がはかったのだから、立派な精神的パートナーだ。はじめのうちこそ、精神的な病の可能性を心配したが、それは全くの杞憂だった。彼女には感情というものに対する固執が全く無かったからだ。代わりに、全てをありのままに受け入れる精神的な自由さを持っていた。
 生まれて初めて、女性に対して名残り惜しい気持を持ったまま、出発の日がやってきた。
「もう、いくよ。もしかしたらここに戻って来る事もあるかも知れないけど、いつになるかわからない」
『意味不明。どうでも良い事だわ』
戻るか戻らないかを曖昧にした途端に、見事に斬る彼女は、田山のど真ん中ストレートだった。彼女に淡い恋心を抱いたとしても仕方ない。いや、10日も一緒だったのだ。完全に惚れ込んでもおかしくないのだ。だが、彼女に対してある種の警戒心、経験に基づく警戒心を持っていた田山は、そこまで重度にならずに済んでいた。
「二度と会えないかもしれないけど、君の事は思い出し続けるよ」
『それはないと思う。私は近くに住んでいるのかも知れないのよね?』
初めて出会った時に、彼女の言った言葉を思い出した。
「最後に君の名前を教えてくれ」
 2人しかいない世界では名前で呼び合う必要はない。喋る相手は一人だけだから。子供の世界でもそうだ。公園で遊ぶ子供は、相手の名前を呼ばなくても、お互いに意志を通じ合わせる。でも、これからは違う。人づてでしかお互いの消息が分からない。
「僕の名前は田山良太」
連絡先を書いたメモ紙を手渡すと
(こわい)
という耳元の小さな悲鳴に続いて、少女の声で
『まだ決まっていない』
もう、縁は終わったのかも知れないと、田山は寂しそうに呟いた。

--------- 3 -----------

 首都について既に1週間以上になる。採集の日々がなつかしい。あの時は、自分の選んだテーマで、大好きな自然の中で、しかも予想外に素晴らしい少女と一緒に過ごしたのだ。一生残る思い出だろう。もちろん、ここでやっている作業もそれなりには楽しく、日本にいる時よりは充実しているのだが、バンガローでの日々には到底かなわない。とにかく、実験系の常で、何処かの装置にトラブルがあったり、スタッフが揃わなかったり、設定が上手くいかなかったりと、中々作業がすすまないのだ。しかも、空いた時間は教授の下請け作業に潰される。早めに引き上げた事を聞いた教授が用事を繰り上げた為だ。だから、日本での日々より楽しくても、採集の期間を減らしたぶん丸損したという気分が常にある。
 もっとも、博士も取らないうちの助手採用なんて、そういう意味しか無い。それでも身分と給料が保証されているのだから、普通の大学院生とり遥かに恵まれているのであって、むしろ、下請け作業がなかったら針の蓆で居心地が悪いだろう。給料と身分は雑務量に比例する。正確には比例でなく、もっと割りが悪いそうだが、それは田山のような助手レベルには関係ない。
 そんな日々を過ごしながらも、週末に当たるその日は、ようやく自分のサンプルのデータの整理を行なう余裕が出て来た。首都に来て初めてだ。もっとも、数日後には教授も合流するから、週明けからは、再び教授の下請け作業となる。採集時のメモと、実験データを照らし合わせながら、十日前までの夢のような日々を思い出す。そういえば、あの時以来、幻覚・幻聴に類する類いには全く経験していない。今の方が過労であるにも関わらずだ。こうなると、あの幻覚すらも懐かしくなる。というのも、それはあの少女とセットで覚えているからだ。
 その日の夕方、以前のサンプルに海岸を思い出した田山は、夜風に当たりにひとけの無い桟橋まで出掛けた。先端で海を見ながら例の少女の事を回想していると、突然、耳元で
(ちょっと面白いかも)
という声が聞こえた。懐かしい感じに、期待をして振り向くと誰もいない。
 認めたくはないが、懐かしさゆえの幻聴らしい。人は失ってからその大切さに気付くというが、全くその通りだ。顔をゆっくりと海の方に戻しながら、そんなことを考えていると、
(あーあ、全然ちがう) 幻聴かも知れないが、それでも指摘内容にぎくりとなる。確かに採集の時の彼と今の彼では少し違う。いわばエネルギー節約モードだ。人間、四六時中、ハイテンションでいられる筈が無い。特に今は、採集と言う祭りの後だから、一種の虚脱感まである。
 そこまで反省すると、もう囁きの事を一時的に忘れてしまって、思考は採集の日々に飛んだ。思い出すのはナメクジだ。意識が現実に戻るのと、
(でもないか)
という声がしたのは同時だった。
 振り返ると、桟橋のたもとの方に大きなナメクジが横たわっている。トドと言った方が良いくらいの大きさだが、あの時のナメクジと同じ輪郭だから見間違えようもない。同じ幻覚。そうに違いないと思った時、車のライトが桟橋を照らし、それに視力を取られた次の瞬間には、幻覚の代わりに霧が立ち上っていた。
 呆然と立ち尽くすうちに霧はすーっと消え。もしかすると、と期待してあたりを見回すも誰もいない。起こり得る筈もない事が起こらなかった事に落胆した田山は
「俺、何を考えているんだろう」
と呟きながら宿に向かった。これ以上、そこにいては精神衛生上に良くないと判断したのだ。
 冷静に考えればあの時の少女がここにいる筈がない。いや、それ以前に巨大ナメクジがいる訳が無い。彼女に会いたいと思った事による幻覚・幻聴に決まっている。それは採取中の幻覚も同じだろう。サンプルを捜しつつ、あるいは見つけたあとで、もっと大きいサンプルが取れないだだろうかと思ったのは事実で、その際に、あの少女の不思議な雰囲気に惑わされて、ついつい妄想を大きくしてしまったと思われる。
 翌日、田山は大学に向かう途中に昨日の桟橋に立ち寄った。明るい陽光のもとで昨日の幻覚を検証しようという訳だ。しかし、理不尽な期待は予想通りに裏切られ、そこには何の痕跡もなく、新たな幻聴を聞く事もなかった。諦めて大学に行き、自分の為の作業を続けた。

 日曜という事もあって誰もいない。それで能率があがったのか、昼前には、キリの良い所まで作業が終わった。翌日からは再び実験と教授の下請け作業だから、これ以上続けても中途半端になるだけだ。そう判断して、半日を休養に当てる事にした。一応、一週間前も休養しているが、この時は面倒見の良い大学院生に連れられて市内をあちこち引きずり回されている。だから、一人での休養はこの日が初めてだ。幸い、天気予報は雨が降らない事を予報している。採集した島とちがって、首都は気象観測点が多いから予報精度は高い。
 今の彼にとってチョイスはただ一つ、自然が多く、人の少ない郊外に向かう事だ。当然ながら、名所は全てパス。地図を頼りに、人家も行楽施設もない場所を目指して、大学に置きっぱなしにしている自転車を走らせる。大学院生のもので、いつでも使って良いと、鍵の在処を教えて貰っている奴だ。もともと大学が衛星都市の郊外にあった事もあり、1時間足らずで自然に囲まれた川べりに出た、ジャングルを切り開いた跡がそのまま自然の遊歩道になっているそこは、小川ではあるものの、河口に近い為に、バンガロー横の川と同じ程度の川幅がある。しかも公有地になっているお陰で、ポテンヒットのように人家も道路も行楽客もいない穴場だった。
 適当に座って、川を見ながらテイクアウトの昼食を食べおわる頃には、すっかり開放的な気分になっていた。自然と鼻歌も出て来る。もちろん、デタラメに繋ぎ合わせた色々なメロディが妙に変形したラプソディだ。開放的な気分になった時に、何かの曲が自分の頭で鳴り始めるという経験は誰にもあろう。子供だとそれが単純旋律で、田山の場合はそれがテンポの滅茶滅茶な変奏曲で、モーツァルトだと新曲の名曲というわけだ。そして、田山の場合の問題は、鳴り響くメロディーに、ナメクジだのアロエだの妙な名詞を脈絡無くつけて、挙げ句に声に出してしまう事だろう。傍目には残念な男しか見えない。
 こうして自分の世界に浸りつつ、川の流れを眺めていると、耳元で
(それ、いいかも!)
という囁きが聞こえた。我に帰ってあたりを見回しても誰もいない。またも幻聴か、と思うや、条件反射的に少女を思い出し、期待半分に川の方に目を戻すが、もちろん少女がいる筈もない。
 普通の男なら、ここで彼女の事を追想して、会いたいなあ、の一言でも呟くだろう。そして、それが小説なら妖精の一人でも出て来るところだろう。だが、田山はそんな男ではない。彼の想いは、少女からナメクジへと、そして午後の大ナメクジ、翌日の夜の巨大多肉草と移って、果ては、もしもそんな巨大水ぶくれ生物が見つかった暁に、それを海水の吸収への応用に成功した自分が、いかにヒーローになっているか、という夢物語に発展していた。まあ、このくらいの非恋愛系ロマンチストでないと、労働時間ばかり長くて、その割に給料だけは中学の同級生の誰にも劣るという助手生活は選ばないだろう。
 懐かしい声が聞こえたのはその時だった
『もう、歌わないの?』
距離感のある声で、おもわずそちらを振り返ると、10メートルほど離れた木立の影から少女が首だけ出している。薄暗いせいか顔が以前と少し違う感じがするが、雰囲気は同じだ。一体どうして此処にいるのかという疑問と、再会(?)の嬉しさの両方で、一瞬、声が出ない。一方の少女はじっと田山のほうを見つめたままで、しかも、その視線に懐かしさは全く感じられない。まるで初対面の時の表情だ。ジャングルの木立で薄暗くてもそのくらいは分かる。
 その様子に田山は我にかえった。採集の時の少女がこんな所にいる筈がない。地元の好奇心の強い少女だろう。そう理解するや、彼女の方を見続けるのがきまり悪くなって、田山は視線を川の方に戻した。それでも気になるのは気になるもので、1分後ぐらいを見計らってちら見すると、彼女の姿は無かった。
 姿が消えると逆に興味が出る。田山は自転車に鍵をして、そこら辺を散策し始めた。もとより採集が好きな男である。本来の、少女を偶然見つけるという中途半端な目標は直ぐに消えて、多肉植物探しに集中し始めた。そうして一種みつけて
「なーんだ、此処にもあるじゃないか」
と独り言を言うや
『知らなかったの?』
という声が、再び距離感をもって聞こえていた。振り返ると、ほんの数メートル先の木の幹に隠れて、さっきの少女が立っている。近くで見ると、採集の時の少女と確かに違う。なんと無く似ているという感じだ。まるで姉妹のように。
 外国人の顔は同じに見えるから、赤の他人と考えるのが自然だろう。そこまで一瞬で直感した田山は、もは少女の素性について考える事は完全に棚上げにして、素直に質問に答えた。ただし、
「知らないって訳じゃないけど、知ってた訳でもなくて、なんとなくそんな気がして、だってここは雰囲気が似ているし」
という自分向きへの説明だ。しかも説明内容は、相手が2週間前の採集を知っているという前提のものだ。たったいま、彼女を赤の他人と判断した事なぞ忘れている。この男はデートでも相手の体験と自分の体験の違いを配慮しない。
 説明が終わる前に少女が話の腰を折った。
『水を固める方法って見つかった?』
吃驚した田山は、少女の方に体を向き直し顔をまじまじと見直した。彼女が採集の時の少女なら、今の発言はまったく不思議ではない。だが、あそこから500キロ以上離れているのだ。彼女がこんな所にいる筈が無いし、顔立ちだって少し違う。声も似ているけど少し違う。さっきの結論を再確認した彼は、わけも分からないままに
「どうしてそれを君が知っているのかい?」
『あれ、違うの?』
どうにも彼を知っている風な口ぶりだ。顔が違うと思ったのは錯覚? 或いは、どこか全然別な所で会った事のある人? 記憶の限り、彼には心当たりがない。
「君は、もしかして、あの島にいた・・・?」
おそるおそる、正直に尋ねる。ほんの10日前に「ずっと思い出す」と云った癖に、もう顔も分からないなんて、穴にも入りたい気分だが、分からないものは分からないのだ。
『あの島? そうかも知れないし、此処かも知れないし、どこにでもいるかも知れないわ』
この論理、この口ぶりは彼女特有のものだ。もちろん彼女の姉妹だって同じ言い方をするかも知れないが、少なくともそれ以外の人間ではない。
「なんだか雰囲気(atmosphere)が違うね」
『大気(atmosphere)が違うなんて誰でも知っているわ』
いつものような微妙な会話のずれを感じつつも、彼女に違いないと確信した。
「どうして此処へ」
『さっき答えなかった?』
彼女に場所の質問は禁物だ。それは採集の際もそうだった。
 あの時の会話の感覚を取り戻した田山は、顔つき声付きの違和感がますます気になり始めた。というのも、他は全く一緒だからだ。そして、ようやく化粧と体調の可能性に気付いた。だからといって顔を褒めるような男では決して無い。その代わりに、彼女がさっきから奇妙な体制で首だけ木の幹の横から出している事に気がついた。もしかして、また裸ではないのか、そう思うや、慌ててリュックを開いて予備のシャツを取り出そうとするが、取り出しかけて、いくら何でも此処では服を着ているだろうという気もしてきた。折衷案として
「そういえば、これ、余っている服だけど、要らない?」
と言いつつ、シャツを取り出して渡した。
 少女が手を伸ばして肩が露になる。そこに布切れは見えない。どうやら裸だったらしい。ホッとすると共に、街に近いこんな場所ですら裸でいる少女に対して、警戒と哀れみと本能の入り交じった妙な感じを覚えた。恋の一歩手前。そんな感じだろう。とはいえ、そういう感覚も、服を着た少女が木の影から出て来た時に消えてしまった。というのも、近くで見る姿が、やはり採集の時の少女と若干違うからだ。それは化粧のせいでも血色のせいでもない。まるで2年ほど歳をとった感じなのだ。
 現実的な可能性は、あの時の少女のお姉さんで、採集の時の話を妹から聞いていたというもの。こういうのは推察を加えて尋ねるのが会話の常套手段である。
「君の妹さんだけど」
『姉妹? 答えるのが難しいわ』
曖昧な返事に、もう一押しする。
「妹さんから僕の事を聞いたのかい?」
『ナメクジで私達が出会ったのが初めてよ』
分からない。英語のせいなのか、それとも重大な見落としをしているのか。だから田山はこの問題を完全に棚上げにする事にした。今、大事なのは、再会(?)の午後をどのように過ごすかだ。
 結局、2週間前の癖で、彼女と一緒に森にいる時は採集するのが一番楽だという結論に達した。そこに彼女を楽しませようという発想は微塵もないが、それですむ少女だからこそ田山は気に入っている。問題は、採集セットを持って来ていない事だが、それでも捜す事は出来る。いわば採集ごっこだ。かくて、彼は久しぶりに充実した午後を過ごし、翌週からのハードスケジュールの為の英気を養った。

--------- 4 -----------

 水曜に到着した教授は3泊だけ滞在して次の目的地に向かって行った。その最後の晩の事である。滞在は田山と同じく大学のビジター用宿舎だったので、その晩は、教授が持って来てくれた日本酒と日本のつまみで、教授の部屋で飲んでいた。今時の教授は、この程度にざっくばらんな人が多い。しかも下請け作業をきちんと出来ていたので2人とも機嫌が良く、サイエンスや仕事と関係ない話を2人でしてリラックスしていた。
『そういえば、体調は大丈夫かい』
採集を早めに切り上げた理由として、疲れているような気がするという旨を知らせていたのだ。
「すこぶる良いです。ただ、その事で気になる事があって・・・」
と、巨大水ぶくれ生物の幻覚の話をした。
『なんだ、そんな事か。まあ、軽い日射病の類いだろう。それぐらいなら、切り上げる事も無かっただろうに。でも、その割には採集の成果が出ているみたいだね』
「ああ、それは、現地の人が案内してくれて」
 正確には、少女との採集探索が楽しくて、ついつい長めの時間、外に出ていた為だ。更に云えば、彼女の案内する道に、外れが無かった事も挙げられる。まるで彼女が捜し物を知っているかのように、必ず何かが見つかったのだ。楽しい日々だったので気付かなかったが、今にして思えば不思議な話だ。
『現地の人? 君にもそういう交渉能力が出来たんだねえ、いやあ、良かった』
「えっと、そうじゃなくて向うから近寄って来て」
教授の勘違いに慌てて訂正する。現地人との交渉能力があるなんて誤解されたら、今後が大変だ。
『それは有り難い話だねえ。次回からも頼んだらどう?』
「それが名前すら知らなくて」
こうして、田山は教授に、不思議な少女との出会いから始まって、いくつかのエピソードをかいつまんで話した。聞き終わった教授は
『それはまるでウンディーネだなあ』
「うん、でぃー、ね? それって何ですか?」
『知らないのか。ドイツの小説に出て来る水の妖精』
「水の妖精、ですか」
 水に関わる物語とはいえ、まだ25歳の田山が知らなくても全く不思議はない。そこで老教授はウンディーネの話をかいつまんで田山に説明した。
『・・・要するに愛を得て固体になって、愛を失って水に戻るという、まさに君が求めているような存在だよ』
話を聞いた田山は、かの少女とウンディーネの同異について想いを馳せた。
「そっかー、きっと、僕の見た少女のような人がきっとドイツにもいて、それから作者がいろいろ想像したんですね」
『ははは、そんな現実的な話ばかりしても味気ないではないか。それよりウンディーネの後日談は聞きたくないかい』
「ふふふ、それもそうですね。じゃあその後日談とやらを僕が予想しましょうか?」
『まてまて、それはこっちの楽しみだぞ』
「じゃあ、先生からお先に」

 2人の真面目なナンセンス酒話は、ウンディーネの悲劇に懲りた水妖族が、簡単に魂などを持たないように、掟を若干変えたというところから始まった。もちろん田山の出会った不思議な少女がモデルで、そこにアジアの伝説が混ざってたり、離婚率の増加という現実が混ざったりしている。
『まあ、恋という概念をウンディーネに持込んだのは騎士のほうだからな。しかも、ひと目惚れと吊り橋効果と3mの法則だけで生まれた行きずり感情でだ』
採集時の少女に淡い好意を抱き、日曜に会った少女も、勝手に同一人物と思い込む事で淡い好意を抱いた田山には、ひと目惚れという言葉だけでも耳が痛い。もちろん、容姿と雰囲気だけでウンディーネを恋した騎士と、少女の理解力や興味に対して連帯感を抱いた田山とは、恋の中身が全然違うが、それでも落ち着かないものは落ち着かないのだ。
『となればだ。男にひと目惚れさせない対策が必要になるな。吊り橋効果と3mの法則の対策は簡単だから・・・』
 男の、枯れた男の発想だ。妖怪狐狸の類いへの対策としては正しいかも知れないが、ひと目惚れだけでも全否定されたら、若者の世界どころか恋愛小説の世界も怪談の世界も味気ないものになるだろう。ましてや吊り橋効果と3mの法則にも否定的とは、さすが結婚ウン十年の老教授といえよう。おそらく、その期間の大半を、妻よりも研究を愛して過ごしてきたに違いない。一応、恋愛という言葉を弁護すべき年齢の田山は弁護に回らざるを得なかった。
「先生、それではロマンがないですよう。それに、第一印象って重要じゃありません? 3mの法則だって、お陰で相手を知る事が出来る訳じゃないですか」
『それもそうだな・・・どうするのが良いやら』
 そう言って考え込む教授の横で、田山は自分と少女との関係を思い出していた。バンガローへの滞在中に、彼女への気持は恐らく恋にまで至っていない。そんな気分を、そのまま言葉で表した。
「先生、ひと目惚れが恋に繋がらないようにすれば良いと思うのですが」
一呼吸おいて教授が答える。
『なるほど、それなら、デートが出来ないようにすれば良い。デートってのは名目上は男と女がお互いを知り合う為のものだが、実際には、長時間密接することで、理性のタガを外させる為の気分作りだからな』
全ての恋愛小説ファンを敵に回す事なぞ気にもとめない老教授の説明は、相変わらず身も蓋もないが、それでもこの発言は、多少ロマンの香りのある提案へと田山を導いてた。
「それでは、連続して4時間以上、人の形を取れないという条件は如何でしょう」
4時間という数字は、彼が少女と過ごした時の経験から出した数字だ。午前も午後も夕方も一緒だったものの、昼食と夕食は完全に別行動だったのだ。教授の話を聞いていると、そのお陰で恋に至らなかったのかも知れないという気がする。
『確かに、それなら現代のウンディーネにふさわしいな』
 こんな具合に、
【相手が恋心を抱くまで名前すら存在しない】
だの
【名前を得たあとは、恋心の熱意の度合いで、人の形を取れる時間が長くなる】
だの
【死の契約は結婚してしまった場合のみ】
だの、挙げ句には俗世的に
【結婚前に同棲お試し期間を義務づける】
だのの後日談がでっち上げられていった。
 現代的にアレンジされた後日談を妄想したあとは、水妖族を科学的に定義しないと落ち着かないのが理系馬鹿という生物だ。
「ところで、ウンディーネって、きっと、僕が出会ったような不思議な体験から連想されたんですよね」
『そりゃ、そうだろう。でも、それだけじゃないだろうな。水が目の前で固まり、そして融けるのを見た事のある人間でないと、水で出来た妖精なんて考えつかないんじゃないのかな』
「あ、そっか。ゼリーや寒天みたいに、水に融けると常温でも固まるような物質ってありますよね」
『ドイツは、化け学というか、錬金術が進んだ国だしな。だから、変わった少女をウンディーネと思った人間も、きっと、固体と液体が常温近くでしょっちゅう変わる様子を見てショックを受けた口ではないかと思うね』
「先生、結論は早すぎますよ。だって浸透圧があるじゃないですか」
『はは、確かに君はそれが研究テーマだからな』
 一見真面目そうな会話だが、ウンディーネがらみのヨタ話を酒の肴としているだけだ。理系大学生や大学院生ならいつもやっている事であり、教授クラスでも時々いる。特に、田山のような変わり者を愛弟子にしているような先生なら、この手の会話は不思議ではない。だから、話もついつい脱線する。
「じゃあ、僕はナメクジからウンディーネに乗り換えようかなあ」
『おお、それは良い考えだ。是非ともウンディーネを調べて砂漠の緑化に応用したまえ』
 こうして、ウンディーネについて二人が酒の力を借りて発見した性質は、
【その本体は水分子や水に溶けているミネラルで構成された情報生命体である】
【水に何か溶かして、それを浸透圧の原理と組み合わせて固化する】
【各地域にそれぞれ淡水族と海水族がいて、一応親戚だけど、淡水族は塩に弱い】
という、SFじみたものとなった。これらの条件の最後に、田山は
【生命体としての情報は津波の速度で伝わり、伝わった先に現れた者は姉妹と呼ぶ】
というのを加えるのも忘れなかった。日曜日に出会ったばかりの少女がモデルだ。
 ウンディーネの似非科学的考察が終わると、教授は冗談めいてこう切り出した。
『田山君、これなら氷はいらないね』
氷とは教授が30年以上も模索している砂漠化対策である。
 教授のテーマは、南極やグリーンランドの氷を砂漠に輸送するというものだ。これは教授が学生だった頃にかなりポピュラーになったアイデアだったが、氷を融かさずに輸送するコストと、効果をあげるほどに大規模に移動させた場合の気候への影響が分からなくて、今に至るまで具体化していない。そうやってぐずぐずしているうちに、グリーンランドの氷床が消え始めているのだから、教授としては、勿体ないというか歯がゆい想いをしてる。だが、だからといって、これから消えるであろう氷床を砂漠に移してしまうとういうアイデアなど、温暖化マフィアが許す筈もなく、ここ10年ほどは細々としてしか研究できていない。もっとも、細々している理由は他にもあって、別のプロジェクトで日本全体の責任者の一人となって忙しい為でもある。だから、その下請けを田山がしているのだ。温暖化マフィアが許さないようなテーマだから、田山も教授の下請けが嫌いではない。
 冗談には冗談で返すのが作法だ。
「そうですね、じゃあ先生の研究はやめますか」
『なかなか魅力的な提案だが、うーむ、やっぱり続けよう』

 教授が出発した日の夜、田山は元祖ウンディーネを、かの一人半の少女になぞらえて振り返った。日曜に会った少女は、同一人物か別人か分からないから、半人と勘定している。この一人半の様子は、発言も行動も現れ方もウンディーネと見事に一致している。ウンディーネ伝説の元になった人物っているんだなあ、と思いつつも、同時に彼女がウンディーネだったら面白いだろうなあ、という妄想も彼を捉え始めた。もしも彼女がウンディーネなら、巨大ナメクジだの巨大バンダイソウなどの巨大水ぶくれ生物は彼女の仕業であり、もしかすると彼女が変身したものかもしれない。或いは彼女の叔父のキューレボルンが化けたものかも知れない。
 ここで妄想に科学的考察が混ざってしまうのが田山の癖だ。彼の疑問の核は、どんな手品でウンディーネというか、ウンディーネのモデルとなった少女が水を固化したか、という事だ。酒の席での会話に触発された発想は、素面の筈の頭の中で再構成される。雪女のように凍らせたのではないし、巨大なスポンジで吸収したもでもないし、魔法のゼラチンを振りかけたのでもない。酒席では溶解と浸透圧の原理の応用などと決めつけたが、実際のメカニズムを考えると、塩やゼラチンなんかよりも遥かに有効な水溶性材料が必要になる。浸透圧とはそういう事だ。簡単にはいかない。
 そこまで思考が漂流して、田山は
「そうだ、本人を調べれば良いじゃないか」
と気がついた。幸い、翌日は日曜だ。調べるといっても、少女が水の妖精である必要は全く無く、彼女のような女が妖精伝説のモデルであると仮定して、彼女を観察する事で、インスピレーションを得ようというものである。この手のインスピレーションは、例えば鉄腕アトムが日本を人間型ロボットの先進国にしてしまったように、けっして馬鹿に出来ない。三つ子の魂と同じ原理で、馬鹿げた妄想や幻想や思い出が科学的な考察や実験と結びついて科学も技術を発展させる事は往々にしてある。もちろん逆は真ならずで、妄想の殆どは田山のような残念な人間を生んでしまうだけで終わる。
 そんなこんなで、教授が出発した翌日の日曜日に、かの少女を求めて、先週再会(?)した場所に出掛けた。もっとも、潜在的な目的は、モルモット的な観察というよりも、あこがれの彼女に会いたいという純粋な気持ちのほうが強く、その意味では恋に近いのかも知れないが、名目はあくまでも観察である。まあ、この年頃の理系男ならしょっちゅうある、複雑な心境って奴だ。
 だが、何時間待っても少女は現れなかった。
「正体がばれたから姿を消した?」
そんな馬鹿げた空想を繰り返しながらウンディーネの話を思い出していた。こういう所在ない時の思考というのは往々にして脱線する。いつしか教授のテーマと重なりあって、水の妖精なら氷を運ぶのも簡単なのではないか、という事に思い当たり、
「そっか、氷の妖精か」
と思わず声に出した。間髪を入れずに
(馬鹿みたい)
という声が聞こえた。
 嬉しくなって、声の方向を振り向くと、巨大な氷の塊が鎮座している。予想外の無機物にびっくりした瞬間、氷は霧のように消え、
(あなたの事なんか気にかけない)
という囁きと共に普通のジャングル風景に戻っていた。幻覚はそれだけで、結局、少女が現れる事もなく、その日は終わった。不純な気持を持った為なのか、正体を知ってしまった為なのか、単なる偶然なのか。常識的に考えれば偶然に決まっているが、そう思ってしまうのが勿体ない気分である。なんだかんだ云っても田山は、純粋な気持で、少女を人間として気に入っているのだ。そして、偶然なら再会のチャンスは薄いが、ウンディーネなら再会のチャンスが残されている。だからこそ、モルモットのような目で見ようとした事で再会のチャンスを失ってしまったかも知れない、という非合理思考で後悔した。

 この日を最後に、まとまった自由時間が殆ど取れなかった。というのも、予定よりも10日も早く採集と解析を終えたので、その時間を使って、再採集の代わりに砂漠地方の植物を調べ、同時に灌漑施設も色々見るように教授にアドバイスされたからだ。それは旅費が出る事を意味する。残された数日間、彼は毎晩、帰り道に港に出掛けた。忙しい彼に出来る事はそれぐらいだ。
 以前の桟橋で1日目は反省し、2日目はそれでも少女の出自を想い、3日目になってようやく純粋に少女の事を懐かしんだ。人は会えないほどに想いを強める。秘せば花なり。日々に気持が強まる中、とうとう出発前日となった。この日は、宿舎での荷造りの為に早めに大学を出ており、港についた時も日は沈んでいなかった。そこで、桟橋から少しだけ歩いたところにある防波堤まで足を伸ばした。そこに埋められたテトラポットは、街のどの建物からも見えない死角になっている。波が高いお陰か、釣り人はいない。そこで、感慨に耽りながら
「もう一度、会いたかったなあ」
自然と懐かしい気持を言葉に出すや
(たった一度?)
という声が例によって耳元から聞こえた。
 喜んで振り返るが誰もいない。
「空耳かあ」
と言いながら首を海の方に戻すと、テトラポットと防波堤の合間に巨大な多肉植物が鎮座している。幻覚かも知れないと思っても、発見の喜びに、彼女の事を忘れて
「こりゃすごい」
と呟き、そこに近づこうすると、とりわけ大きな波が襲って来て、それに気をとられた時には既に多肉植物は見事に消えていた。今までと同じだ。
「また幻覚かあ」
と凝りもせずに落胆した途端
(ゲンカクって、変な名前ね)
と再び声がする。
 気がつくと、防波堤のすぐ近くにあるテトラポットの影から、先週日曜日の少女が姿を見せていた。あの時に渡したシャツを着ている。
「やあ、君かい」
本当は「会いたかった」と言いたかったが、それでは変に誤解されかねないので、無難な挨拶を交わす。
『あなたの好きなモノって、普通じゃないから、また会う事になった』
分かり難いモノ言いだが、気持はなんとなく通じる。2人とも水回りの生き物が好きだから、同じ場所に行く事が多い。そういう事だ。ただ、それが恋心なのかというと微妙だ。そもそも、好意の対象が、目の前の少女か、それとも、目の前の少女に面影を感じる採集時の少女なのかすらはっきりしない。色恋沙汰とは別の、それでも恋に近い気持とでもいうのだろうか。
 取りあえず話題を繋ぐ為に、なぜ防波堤に来たのか、4日前に例の川に来ていなかったか、とか尋ねたが、いつも通り、要領を得る回答は得られない。そこで一転して、多肉植物の話と、それまでで見かけたサンプルのうちのどれが一番好きかとか、そういう話で会話を盛り上げた。
 至福の時はいつも束の間だ。夕闇が迫り始め、別れの時が来た。もう会えないだろう事を告げ、その理由を
「明日にはここを経つんだ。そのあと砂漠に1週間いて、そのまま帰国なので、もう会えないだろうね」 と締めたあと、田山は無性に寂しさを感じた。少女は平気な顔をしている。まあ、常識的にはそうだろう。彼女にとっては2度目の邂逅に過ぎない筈なのだ。
 そう理解していたら、
『どうして会えないの?』
と尋ねられた。会いたいのだろうか? と思わず嬉しくなるが、その前に正確さを期さなければならない。
「だって、帰国先は日本ってところだよ」
『形になるって、自由に動けないって事なのね。魂って不便』
例によって意味不明の言葉だが、遠くて不便という気持だけは伝わって来る。そう解釈した田山は機嫌が良くなり、半月前と同じ言葉を繰り返した。
「砂漠にいる間も、日本でも、君の事は忘れないから」
恋愛音痴の田山は別の言い回しを知らない。
 この時、少女は不思議な発言をした。
『砂漠って、そこに水を運ぶんでしょ? 手伝いはいるの?』
手伝い? 発言内容の意外さに歓喜して、バラ色の可能性を一瞬にして色々と妄想した。まだ縁は切れていない。手伝いと云っても具体的には色々あるのだ。どのバラ色物語にせよ、連絡がまず必要だ。それも日本で。気持が先走って、田山はいきなり
「日本に来る事があったら、連絡してよ。僕の名前は・・・」
言いかけた。しかし、彼女は
『ずるい』
とばっさり斬った。確かに彼女が日本に来る事なんてない。彼が旅費をせめて半分でも出して招待するのが筋だ。なんせ彼女は協力してくれるのかも知れないのだから。そう反省する間にも、彼女は
『勝手に名前を付けて、勝手に名前を捨てるのね』
と妙な言い方で責めて来る。意味は分からないが、それでも浮気を責められたみたいで落ち着かない。あるいは、手伝いに対する先走りが問題だったのかもしれない。
 ここで引き下がっては、せっかくの縁が切れてしまう。田山は慌ててメモ紙に連絡先を書いて彼女に渡した。
「君の名前は」
ダメ元で名前を言うと
『きっとゲンカクだと思うけど、分からない』
幻覚だけを日本語で、残りを英語で彼女は答えた。

--------- 5 -----------

 砂漠で女っ気の全く無い一週間を過ごした田山は、40日ぶりに日本に帰国した。砂漠では採集はしない。砂漠で頑張って生きている植物を採集するのは可哀相だからだ。写真と採集用注射器だけで、事件も幻覚も空耳もなかった。もちろん、水の精なぞ砂漠どころか海にも川にもいるはずがない。あるのは砂を飛ばす強風と蜃気楼だけだ。
 帰国後の慌ただしい1週間が過ぎ、帰国後2度目の週末にようやく自由な時間を得た。研究者や大学院生の中には土曜日も研究室に閉じこもる者も多いが、田山は違う。出張中はともかく、日本にいる時は土曜もきちんと休んで自然と仲良くする事をモットーとしている。それは教授もそうだ。砂漠を再生するという自然にかかわる仕事をする者が、自然と仲良くならずに研究室に閉じこもるなんて論外だからだ。そればかりか、教授は
『才能の劣る者がサービス残業で補うという二宮金次郎的な発想を、労働密度の高い職業にも当てはめるのが間違いだ』
と公言してはばからなかった。だから田山も出張前日等よほどの事が無い限り土曜に研究室に行く事はなかった。
 その週末だが、砂漠で水に渇していた田山は、川と海の両方を求めて、中程度の川の河口にやってきた。一応、自転車で行ける範囲である。というか、自転車以外に行ける方法が無い場所と言ったほうが良いかも知れない。植生こそちがうが、その景色は一人半の少女に出会った場所を彷彿とさせる。もっとも、何十分もずっと思い出に耽り続けるような事は田山には出来ない。すぐに人間以外の何かを考え始める。男の多くはこのように浮気なのだ。彼の場合、対象は大抵が水ぶくれ系生物をはじめとする自然で、たまに灌漑などの人工構造物が加わったりする。そして、考えるだけでは飽き足らず、直ぐに行動に移す。女の人を思う時の行動力の無さと対照的だ。こうした態度を女性に失礼だと言う者は、永遠に彼とは分ち得ないだろう。
 自然とナメクジを捜したり、葉や幹に水分の多い植物を捜したりした田山は、それでも、これらの動植物を捜す楽しさと、例の少女と一緒にいた楽しさを重ね合わせていた。日本に戻り、旅行報告で動物園のチンパンジー並みに引っ張りだこになった田山は、研究室の女の子だけでなく、同窓の女の子に会う事が多かったが、彼女達の旅行写真に対する反応を見て、つくづく、採集時の少女に匹敵する女の子が一人もいない事を実感している。それを思い出し、例の少女に連絡するすべどころか、彼女の名前すら聞きそびれた事を後悔した。遠く届かない存在だからこそ、ますます憧れる。

 自然への浮気と、少女への追憶を繰り返して3時間もしていただろうか、そろそろ昼食の帰ろうかと思って、自転車を置いた場所に戻ると、自転車から5mほど離れた崖の陰に、多肉植物ともサボテンともつかない巨大な水ぶくれ植物を見かけた。
「えっ」
思わず声を上げつつ、田山はそれに向かって走り出したが、そこは河口とは云え、根っことか岩とかあるから、足下を注意しなければならない。はじめのうちこそ、巨大な植物から目を離さなかったが、30mほどのところまで近づいたとき、足を根っこに引っ掛けそうになった。足下確認しの為に十歩ほど目を離したら、その隙に、巨大植物は視界から消えていた。
 立ち位置の関係から何かの陰に隠れているのか、と始めは思ったものの、自転車の横に来ても分からない。
「あ〜あ、またか」 と落胆したものの、それを境に例の少女を思い出して、
「会いたいなあ」
と呟いたら
(この人かな?)
という声が耳元で聞こえた。今までと違って日本語だ。慌てて回りを見回すと、さっきの巨大植物が崖から少し離れた木陰の鎮座している。さっき見かけなかったのは死角だったせいかも、と頭では納得するか、1ヶ月半前の経験が頭からこびりついているのと、教授と酒で語り合ったウンディーネ伝説が頭のもう片隅に残っているのとで、理不尽にも
「あの幻覚、ではないよね」
と声に出してしまった。そう言いながら、不規則な地面に目を足下に向けた時、
(確かにゲンカクよ)
という声がして、慌てて目を植物のほうに向けたら、奇麗に消えていた。木の一部を見誤ったのか幻覚か。そう考えるのが合理的だが、田山としては、今の幻が、例の少女と何か関係があってほしかった。縁起かつぎとでもいうのだろう。
 理性的には少女がウンディーネである筈がないし、それどころかここにいる筈もない。でも、伝説が生まれた時と同じような偶然で、ここに、あたかもウンディーネの如く少女が現れる可能性だってあるのだ。その確率は限りなくゼロに近いとは云え、ゼロではない。たとい、原子力発電所が核爆発を起こす確率よりも遥かに低いとしてもだ。
 もっとも、そういう矛盾した気持も、更に近づくや奇麗に消えてしまった。というのも、そこの木の枝に、非常に大きなナメクジを見つけたからだ。こうなると、彼の浮気は止まらない。喜び勇んで観察し、あたりを見回し、捕まえ、自転車のところに戻って、積んである採集器の中に入れた。その最中、
(手伝うって言ったでしょ?)
という声が聞こえて気がしたが、ナメクジに夢中の彼は、生返事気味に
「うん」
と言ったきりで、その後の
(まただ)
(まあ、水だからいいけど)
という囁きは田山の耳に入らなかった。
 思いがけない成果に気を良くした田山は午後中歩き回って、珍しいものを捜したが、そんなに簡単に見つかるものではない。それでも夕方まで続けたのは、頭の片隅にウンディーネ疑惑の少女が助けてくれているのではないか、という気がしたからだ。神様の加護と言う奴だ。どんな作業にも運の良い日と運の悪い日がある。この日は、大型ナメクジを見つけた事で、既に運の良い日という位置づけだった。その運をもたらしたのが、ウンディーネという名の女神だ。いくら科学者とはいえ、運の善し悪しを確率論と体調論と天候依存論などを組み合わせて複雑に考えるより、「神様のたたり」「お化けのお陰」として、理由を神様やお化けという名のブラックボックスの中に棚上げするほうが、日常生活の上で遥かに実務的だ。論理に頼るのは、原発の例でも分かるように大きなしっぺ返しを食う。そして、今の場合、その女神はウンディーネであって、その姿は1ヶ月半前の少女だった。
 その想いが通じたのか、この日は幻覚を再び経験した。昼食後2時間ほど頑張り、成果がないので帰ろうとした時の事だった。
(ほら、そこ)
という空耳に従って見回すと、少し離れたところに巨大ナメクジらしき何かが見える。だが、近づく途中に足下を見た途端に、それは霧となって、そのままあっという間に消えてしまった。そして、これを手始めに、巨大な水ぶくれ植物の幻覚を何度か見る事になった。いずれも、目を少し逸らす間に消え、見つける前や見つけたあとに
(ばっかみたい)
(ここにはないわ)
(たのしいひと)
などという日本語の声がした。ここまで来ると、幻覚も懐かしい気持ちを呼び起こすだけで、不思議でも何でもない。帰る間際に
「幻覚も悪くないな」
そう呟いたら、
(失礼な、今まで悪いと思っていたの?)
という返事が聞こえたが、それも空耳なのだろう。空を見ると、午前の絹雲(すじ雲)がうろこ雲に変わりつつあって、翌日曜日が雨で外出できない事を示していた。
 採集した時は非常に大きいと思ったナメクジも、湿度のせいか、アパートに帰った時は、やや大きい程度だった。それでも大きい事には変わりないし、思い出の象徴のような気がするので、週明けに研究室に持って行くと、教授が
『さっそくウンディーネ採集か』
とからかった。2週間前に酒の上でウンディーネ談義をした内容を、さっそく拡大解釈しているのだ。この、ごくありふれた冗談は、一気に研究室に広がり、それ以来、研究室の中だけの符牒として、田山の採集した水ぶくれ生物は、いずれもウンディーネと略称されるようになった。もっとも、田山だけはその名前を使わなかった。というのも、彼にとってウンディーネは幸運の女神であり、例の少女を意味していたからだ。
 翌週末もウンディーネの幻覚を求めて自然の中を歩き回った。もちろん、少女が現れる筈がない。だがそれで十分だ。かくて田山はウンディーネ女神の少女を意識するようになった。その彼が奇妙な出来事に巻込まれたのは、その翌週だった。

 その週の水曜日、少し離れたところにある寂れた漁村で、女性が海中から突出した岩に取り残されているのが発見された。その日は大潮で、引き潮の時にその岩まで泳ぎついて、上げ潮の波の強さに戻れなくなったと解釈するのが自然だったが、本人の記憶があやふやで、しかも発見時に全裸だったことから、船から転落して泳ぐ為の服を脱ぎ捨てた可能性もある。近くを航行した船や、流出したボートなどに問い合わせたが、簡単に分かる筈がない。とりあえず衣類と食料をあてがわれた彼女は、服は来たものの、何も食べようとしないとの事だった。
 一番の問題は、本人が名前や住所を忘れている事で、名前を尋ねると
『それは幻覚』
住所と尋ねると
『私は住んでいるの? ふーん』
と脈絡のない答えをした。年齢に至っては
『知らない』
の一言だったので、結局のところ長時間のストレス状態で軽い錯乱状態になったと判断され、とりあえず病院で一夜を過ごさせるという判断に落ち着いた。点滴の必要も検討されたが、本人が至って元気だったので、とりあえず手がかりになる人と連絡が取れるまで見合わせてある。
 その彼女が唯一出した具体的な手がかりが
『ナメクジを砂漠に持って行こうとしている人』
だった。検索の結果、田山良太という名前に辿り着き、水曜の夜に彼に電話がかかって来たのである。警察も病院も、名前や住所を彼女から聞き出す前に、田山に来て貰うべきだと判断した。
 事情を聞いた田山は、ウンディーネの少女に違いないと直感したものの、病院で実際に彼女と対面して戸惑った。顔つきどころか肌の色も違ったからだ。ウンディーネの少女たちよりも遥かにメリハリがありながら、柔和な顔と肩にかかるみどりの黒髪は、東アジアの穏やかなタイプの美人を再現していて、警察や病院が甘めの対応をした理由が伺われるものだった。だが、そこまで彼女を顔を表現出来るほどに眺めても、田山には心当たりが思い浮かばなかった。

--------- 6 -----------

 
 採集旅行の多い田山は、そのつど出掛ける地方にある大学や研究所と連絡をとっており、その際に多くの学生と交流している。25歳で助手になった彼は、有望株として学生達から覚えられやすい立場にある。しかも、自己紹介でナメクジで砂漠を再生させる夢を真面目に語るような変わり者だ。むしろ、忘れろというのが無茶だろう。
 大学以外にも、彼の研究を知っていて、彼の記憶に残らないような女の子が数多くいた。高校時代に先生方の覚えの良かった彼は、出身校で放課後に海外の採集先の写真や動画を上映して集まった生徒達に話をした事がある。採集先が普通の人の絶対に行かない場所であり、しかも内容が理科と社会の授業の味気なさに潤いを与えてものだからこそ、そういう場が設けられた。その結果、生徒の評判はもちろん、それ以上に担当した先生の評判も上々で、その評判を受けて、恩師や同級生の勤める他の高校でも似たような事をした。だから大学、高校を問わず、彼の知らない女性が、彼と砂漠とナメクジの組み合わせを知っていても不思議はない。
 しかし、今回の件はそれだけでは説明出来ない。何故、他の人を差し置いて彼なのか。普通だったら、家族とか友人とかを選ぶ筈だ。たとい家出で、過去のしがらみを絶ちたい場合でも、田山ほどにとっかかりの無い人間は選ばないだろう。少なくとも、彼には心当たりがなかった。にも関わらず、身元不明女は、皆の集まっている部屋に田山が入って来るまで戸惑った様子だったのに、彼の顔を見つけるや明らかに安堵の様子を示し、単に知っている以上の何かを感じさせた。その様子に警察関係者は一安心したが、それが田山を更に窮地に立たせた。
 冷静に考えて、一番あり得るのは、東アジアからの不法入国だ。つい1ヶ月前でも異国の大学に寄宿していたように、彼の行動範囲は日本国内に限らなかった。その時に彼を知った女性が、生活上等の理由で、日本に来ようとした可能性は否定出来ない。古くはベトナムのボートピープルの例もある。彼らの中には、現在、アメリカの大学で第一線の研究をしている者も居り、決して無謀とは言い切れない。より現実的には、例えば日本行きの貨物船にこっそり乗り込んで、上陸前にゴムボートか何かで海岸を目指した可能性もある。沿岸の海流を読める人なら、天気が良ければ、さほど危険ではないのだ。
 実は警察も外国人の可能性を考えている。日本語の受け答えが奇妙だった事を挙げて、部屋に入る前にそう教えてくれた。しかし発音は完璧だし、答えのタイミングから聞き取りも問題ないようで、第一、美人で栄養状態の良い女性が、わざわざ裸で密航する理由が見つからないので、密航した可能性は低いと判断している。もしも密航だとしたら、マフィアによる人身売買や誘拐に巻込まれて、日本に運ばれる途中に逃げ出したのではないかと考えているそうだ。
 警察が持っていたそういう懸念を、彼女は田山への笑顔で払拭した。マフィアが絡んでいるとしたら、田山を個人的に知っている筈がないからだ。下駄を預けられた形になった田山は、取りあえず質問する事にした。もしかしたら高校や大学で彼の話を聞いた女の子の一人だったのかもしれない。もちろん、聞いた当時に高校生でも今は大学生かも知れないし、浪人生かも知れない。
「君にはどこで会ったっけ?」
『見た目でしか覚えていないのね』
既視感のある受け答えだが、回りの人間は少し引いている。
「えっと、知り合いだったかな」
『知り合い? 見た目が少しでも違うと、そう思うのね』
やっぱり既視感がある。もしかしたら、あのウンディーネ少女を知っているのかも。それどころか半分だけ血のつながったお姉さんの可能性すらある。そういう目で見ると、例の一人半の少女達に共通するものがある。
「えっと、この街へはどうやって来たの?」
『なんとなく分かった』
 ここまで話して、会話を続けるべきでないと感じた。というのも、傍から見たら、まったくチグハグな解答で、まるで日本語の不完全な外国人との受け答えだからだ。もしも、そのように判断された場合、田山には彼女を弁護する手立てが無い。住所はおろか、名前さえ知らないのだ。しかも、ウンディーネ少女の関係者なら、外国人の可能性が高い。そうなると、もはや犯罪者扱いだ。それは、採集を手伝ってくれた少女に対して申し訳が立たない。それ以前に、彼の顔を見て明らかに安堵した彼女に悪い。
 但し、厄介な女を抱え込む事は自殺行為である。だから、弁護の前に、色々と確認しておきたい。
「皆さん、済みませんが、彼女と2人だけにして貰えないでしょうか?」
このような提案は警察にとっても病院関係者にとっても有り難いものだ。というのも、この厄介な遭難事件に対して、もしかしたら彼が身元引受人になってくれるからだ。
 2人だけになるや、彼女のほうから
『本当に覚えていないの?』
と言って来た。
「ごめん。ヒントに名前ぐらい・・・」
『勝手なものね』
相変わらず謎の多い答えだ。次に言うべき言葉が見つからないうちに、彼女は
『忘れてしまったのなら、消えてしまうから』
と更に奇妙な事を言い始めた。時間稼ぎに、
「それ、何時の事ですか?」
『ふん! 早まったかなあ。あなたなら本質を見ていると判断したのに』
言語も声色も違うのに、雰囲気も会話も、何故かウンディーネ少女を目の前にしているかのように田山は感じた。そうなると、名前に関する謎の言葉はどうでも良くなる。
「幻覚じゃあないだろ」
と独り言を呟くと、それが彼女に聞こえたらしく
『どうしてゲンカクだと思えないの? わざわざ手伝いに来たのに』
と、重大な事を言って来た。
 ここに至って、田山は「ゲンカク」が名字ではないだろうかと気がついた。思えば、
「ゲンカク」
という言葉は1ヶ月前に、異国の防波堤で聞いている。illusionでなくゲンカクと少女は言った。それが幻覚という意味でなく、名前だとしたら・・・手伝うという意味は、まさにその通りだ。あの時、彼は確かに少女に手伝いを乞うた。それを姉、姉でなくとも親戚の誰かに彼女が言った可能性がある。顔写真なんてネットで簡単に手に入るから、彼女が田山の顔を見て安堵したのも頷ける。
 もっとも、これらは全て推定だ。本人に確認する必要がある。そうする事で、とんでもないものを背負い込むリスクはあるが、あのウンディーネ少女との繋がりなら、そのくらい構わない。一生に一度会えるか会えないかの異性なのだ。意を決して
「ゲンカクさん、でいいんだよね」
と尋ねると、相手は簡単に頷いて
『砂漠を生まれ変わらせるんでしょ?』
と彼の夢を代弁した。
 会話はその後も続き、彼女の理解の的確さにすっかり感心した田山は
「さすがウンディーネ少女のお姉さんだ」
と勝手に決めつけて、彼女を引き取る算段を始めた。これが中々に大変だ。もしも彼女が日本人でないと、本国に送還という事になるし、日本人だと戸籍と住民票の確認が必要だからだ。警察を前に、彼女に見覚えがないようなそぶりを田山はしている。
 結局、何処かの大学で出会った女の子で、彼の仕事の手伝いをしに押し掛けて来たけど、原因不明の遭難で諸々の事を忘れてしまって、一番大切な要件だけを覚えていた、という半分だけ本当のシナリオをでっち上げた。大学の名前はもちろん不明のままだ。田山のようにあちこちに出掛けている人間にとって、何処で出会ったかを覚えていないのは不思議ではない。
 幸い、警察の方も、マスコミ受けする美人と大学助手を相手に面倒ごとは嫌とばかり、あっさりと田山を身元引き受け人として認めた。ただ、それだけでは不親切と思ったのか
「何か不審な事があったら連絡して下さい。あと、何か新しい事があっても連絡して下さい。こちらからも定期的に確認の電話を入れます」
と、今後の心配をしてくれたのは、田山にとっても心強かった。ここまでスムーズだと、逆に美人局がらみの陰謀を疑わなければならないが、先ほどの会話は、並のスパイでは不可能な内容で、第一、彼自身に、妙な組織に狙われる要素が全くなかった。

 翌木曜日、田山は「ゲンカク」を迎えに病院まで行き、そのままの足で研究室に向かった。彼女の服は彼女を発見した漁村の人がお古を提供してくれていたので、買い物は夕方で十分だ。その前にすべき事は当面の宿の確保だ。身元引き受け人とはいえ、そのまま彼の狭いアパートに寝泊まりさせる訳にはいかなかった。やましい事をしない限り、困っている人に宿を提供するのは当たり前の事だが、助手と言う社会的身分がそれを許さなかった。穿った見方をすれば、遭難と記憶喪失の弱みに付け込んだ事になるからだ。とりあえず、朝のお茶の時間に研究室の面々に助けを求めたところ、自宅通学の学生が数泊住まわせてくれる事になった。
 午後のお茶のあと、女子学生に2万円渡して、彼女の買い物に付き合って貰った。なんせ、砂漠再生の関わる新しい同志となりうる人材だ。しかも、彼が心を動かした少女との繋がりもある。多少の投資は当然だった。彼女達が買い物をしている間に、彼は安宿の確保に奔走した。地方都市の空洞化した街中では、空き家の管理に困っている人が沢山いる。運が良ければ、空き家の管理という名目で何処かに住まわせて貰える可能性すらあるのだ。もちろん不動産屋も回って、安い下宿先も捜した。車を持たず高価な趣味を持たない田山には、多少の金銭的余裕があるから、彼女がアルバイトを見つけるまでのサポートぐらいは問題なかった。記憶喪失の遭難者を助けようとする雰囲気は研究室全体にも広がり、特に男子学生なんか、廃品直前の家具とかを集める手立てを既に講じていた。若い男は美人に甘い。
 こうして1日目を慌ただしく過ごしたが、その夜にさっそく問題が起こった。彼女が失踪したのだ。夕食前に、家の近くを見て回りたいと、散歩に出て行ったきり彼女は戻なかった。単に迷子になってしまった可能性もあるが、2日前の発見時の経緯を考えると、そのまま失踪しかねない。昼もろくに食べる暇が無かった事を考え合わせて、学生と田山が手分けして捜しに出ることになった。夕闇が始まっているが、今の市街地に闇は存在しない。
 田山が2ヶ月前に会った少女は土地勘が恐ろしく良く、そのお陰で採集がはかどった程だ。しかも神出鬼没だった。その少女と身元不明女は別人だが、丸一日の言動を見る限り、彼女も道に迷うような人間とは思えない。昼だって勝手に散歩に行っていた程で、それで昼食を食べ損ねていたりする。迷子の可能性は少ない。
 では、失踪はあるだろうか? 苦労してここまで手伝いに来たのだ。色々な可能性は頭をよぎる。我れに帰って暫く距離を置きたくなった? 研究室を見て失望した? あるいは彼の対応が悪かった? 親切過ぎた? いつしか田山は、無意識のうちに、彼女を失いたくないと思っていた。それは、昨日までの利害がらみでなく、純粋な意味でだ。もはや、彼女は、2ヶ月前の少女の縁者というより、2ヶ月前の少女の面影そのものとなっていた。姿は確かに違うけど、中身は同じなのだ。ふと、一昨日の夜に彼女に会った際の一言目が思い出された。
『見た目でしか覚えていないのね』
そうか、それなら、心当たりはある。きっと水回りだ。

 学生の自宅から1キロほどの所に農業用のため池である。その下流の大半が市街地に組み込まれた今も、水位を落として防災用として機能している。田山は急いでそこに向かった。もっとも、あくまで勘だから絶対的な自信はない。だから、ため池で
(来たのね)
という空耳と共に、葉肉の異常に暑い麦の幻覚を見た時は、ここで間違いないと喜んだ。
 だが、それは彼女を求めるあまりに彼が作り出した幻想だったかも知れない。その後、あたりを調べ、更にため池を一周したが、とうとう彼女は見つからなかった。既に1時間近く経っている。電話で学生に確認すると、既に捜すのを諦めて家の門の所で待っているらしい。
 田山に諦める理由はない。ため池から流れ出る用水沿いに移動し始めた。はじめは自転車を押してゆっくり、それから自転車に乗って、夕闇と競るように少しずつ速く。用水だから枝分かれしているが、そのうちの一つは二級河川に注いでいる。今でも農地を横切っているが、所々森の近くも流れていて、そこは田山の好きな場所のひとつだ。自転車なのを良い事に、用水沿いに川まで行くと、すっかり濃くなった夕闇に、人影らしきものを見かけた。
(見つけてくれた)
という空耳に、思わず
「ここにいたのか」
と答えるや、人影と思ったものはごく普通の木々に変わっていた。
 見間違えたと分かっていても、諦められないのが人情だ。自転車を降り、あたりを捜すと、やがて
『自信が無くて逃げて来た』
という声が横から聞こえて来る。そこに立っていたのは紛れも無く彼女だった。
「自信?」
と問う彼の声を無視して、彼女は
『ここまで監視され続けると苦しい』
と独り言のように言った。そうか、彼女は水のように自由奔放な女の子だ、と合点した田山は
「気がつかなくて悪かった」
と素直に謝った。彼女は続けた。
『でも、あなたが見つけてくれたので心が固まった』
何の決心かは分からないが、少なくとも田山を悲しませる事はないだろう。

--------- 7 -----------

 「ゲンカク」という名のウンディーネが田山の所に来て2ヶ月が経った。世の中は美人だけが得するように出来ているようで、住民票が無いにもかかわらず、アルバイトは直ぐに見つかり、田山の見つけた安下宿の家賃も自分で払えるるようになった。これには、田山の身分が保証人として十分だった事もあるだろう。もっとも、その下宿を有効利用しているかというとそうでもなく、アルバイト以外の時間は、田山のアパートと研究室の両方に入り浸った。研究室では、動植物に含まれる水分の多寡を目分量で当てる離れ業を何度もやった事から、結構重宝されている。でも、それ以上に彼女は田山の恋の対象だった。
 想い人が好きなモノには、だれでも少しだけ余分に時間をかける。田山は今まで以上に、水ぶくれ生物で砂漠を潤す夢に熱心になった。そうして、いつしか彼のまぶたには、砂漠の中で巨大な多肉植物やサボテンを引っ張る、巨大なナメクジ群が焼き付けられていた。その夢を研究室のメンバーに嬉々として語ったのは言うまでもない。もっとも、目を輝かせて聞いてくれたのはたった一人だったが。
 彼女がもっとも生き生きしていたのは、週末の野外採集だった。この近辺にはもはや採集出来るところなどほとんど残っていなかったが、彼女の喜ぶ姿を見たかった田山は、自分の趣味も兼ねて彼女を土曜も日曜も連れ出した。それは雨の日も関係なかった。その結果、この地方でも一番大きい類いのナメクジや水ぶくれ植物が次々に見つかっていった。4ヶ月前の採集で出会った少女と同じだ。採集物が余りに多いものだから、研究室から溢れ出て、植物の一部はアパートの主に風呂場を侵食している。学生の延長みたいな身分の一人暮らしという事で、内風呂の代わりに銭湯に行くからバスタブは必要ないのだ。銭湯が減ったとは云え、全滅した訳ではない。
 風呂場を占拠するぐらいに成果の出る楽しい採集だから、いつしか、採集の前夜、つまり週末の夜は、彼女が田山のアパートに泊まって行く習慣になっていた。といっても、同じ部屋に寝るのではない。採集旅行の感覚で、彼女が居間の床に寝る。そういう彼女に対し、田山は後見人という態度を崩さなかった。想い人であるが故に、節度が必要だったからだ。ただし表向きの理由は、彼女が成人かどうか分からないからというものだ。実際、20歳どころか18歳以上なのかすら分からない。
 未成人とその後見人が男女の関係に及んだ場合、それが誘惑で何であろうが、法律は未成人の味方だ。そして法律は悪用する為に作られている。例えば、ウィキリークス事件では、合意の上での情事にもかかわらず、コンドームをつけていなかっただけで国際手配にまでなった。彼女が心変わりしなくとも、第3者がそれを利用する事があり得る。そういう事例を挙げて、田山は研究室のメンバーに
「何の関係もない事」
「何かの関係になろうとすら思わない事」
を力説した。
 そんな説明を素直に受け止める者などいない。単に田山が馬鹿だから、関係が進んでいないという意見が殆どで、いつかは2人がなし崩し的にゴールインする事を予想していた。恋バナの定番だ。美人で、しかも研究の役に立つ女性だから、そんな彼女を何の苦労もなくモノにした田山に対して、多少の嫉妬もあっただろうが、それ以上に、田山に春が来た事を研究室のメンバーは純粋に喜んだ。というのも、田山が結婚できるとが誰も思っていなかったからだ。25歳で助手になった田山は、彼らの希望の星でもあったのだ。

 そんなある日の事だ。教授がお茶の時間に予算申請書の表紙を持って来て、皆の意見を聞いた。彼の夢ともいえる、砂漠に南極北極の氷を撒くプロジェク用だった。そこには強風に積雪が舞い上がる中を行進するペンギン達の写真と、砂漠の写真が掲げられていた。それを見て、真っ先に女子学生が
「このペンギン、恰好いい!」
と褒めた。田山のような人間がごろごろ生息している研究室で、
「可愛いと言っている私、可愛いでしょ」
みたいな白けた事をする女子学生はいない。確かに、彼女は素直に恰好いいと思ったのだろう。残りの一同も、言われてみればそうかも知れないな、という若干覚めた目で、
「いいですね」
「先生にしては久しぶりのヒットですね」
と口々に褒めた。唯一、身元不明女だけが、
「寒くて辛そう」
という場違いなコメントを残した。
 一通りのコメントが終わったあと、最後に表紙を手にした田山は、強風に積雪が舞い上がる様子が、3ヶ月前に見た砂漠の砂嵐とダブって見えた。南極も北極も、温度が低いゆえに絶対湿度も非常に低い。だから冬場は湿度0%とか2%という事がしょっちゅうで、その為に静電気の問題が大変だと聞いた事がある。H2Oはあっても、液体や気体の水のない土地。そういう所の雪は、乾燥と寒さで、砂のようにサラサラして砂のように痛い。砂漠よりも更に砂漠っぽいのが極地の冬だ。
 そこまで思い当たった時、彼の頭には新しい構図が浮かんだ。2枚の写真を合成して、砂漠の上をペンギンが歩くと言う構図だ。氷はペンギンが象徴する。ペンギンの意味はそれだけではない。
 何週間も食べ物を取らずにに卵を孵す耐久力。
 植物の全くない不毛の大地を延々と歩き続ける精神力。
 丸々と太った体積効率。
その全てが砂漠に氷を運んで貯蔵するプロジェクトのシンボルに相応しい。彼はこのアイデアに熱中した。
 新しいアイデアを思いついた途端、今までやって来た事を全部棚に上げて、そのアイデアにのめり込む。男には良くある事だ。彼自身はナメクジ好きとは言え、一般人がナメクジよりペンギンを好む事ぐらい認識している。ナメクジの水による砂漠の再生では誰も聞いてくれないが、ペンギンの氷と砂漠の組み合わせなら食いつく人間が絶対に出て来る。なによりも、ナメクジをペンギンに置き換えた構図は、女子学生の言うように恰好良い。
 今の彼にとって、水も水ぶくれも、もはや棚上げ事項に過ぎなかった。その結果、週末の採集はキャンセルされ、氷の張りやすい場所を捜す事に費やされた。冬は近い。山では既に初霜が観測されている。氷に熱中するのに最適のシーズンだった。そういう場所探しに、ウンデゥーネの彼女を誘ったが
「氷なんて窮屈じゃないの! 全然動けないのよ」
と言って、付き合おうとはしなかった。普通の男なら彼女を慰めるだろうが、研究者モードの田山にそんな常識は通用しない。彼は一人で週末を過ごした。
 もっとも、田山とて氷の心を持っている訳ではない。月曜日に研究所で彼女が水ぶくれ生物の世話をし、その話を積極的に田山にするに及んで、彼女に対し少しだけ申し訳ない気持になった。
「君には確かに水の自由さが合っているね」
そう中途半端に謝って、取りあえず少しの時間だけ彼女と水ぶくれ生物を廻って話をするようになった。そういう日々を過ごすうちに、新しいアイデアへの熱も下火となり、平日の昼間はナメクジだの多肉植物だのサボテンだのを元通り追うようになった。とはいえ、季節がら氷の事は忘れられないらしく、週末は氷の事ばかりに熱中した。ウンディーネの「ゲンカク」は、それでも金曜夜だけは彼の所に泊まりに行き続けた。そして、翌日に採集が無いと決まるや、寂しそうな顔で帰っていくのだった。

 そうこうするうちに、水曜会という研究会の世話役が、田山の教授のところに回って来た。これは、地球科学の問題のうち、社会的に注目を浴びる事柄に関して、複数の研究分野の有志研究者が、自由に意見を交換する為に、隔月の第2水曜日に集まっているものだ。トピックは毎回変わり、会合場所も持ち回りで変えている。若手や学生への刺激の為だ。有志研究者といっても教授クラスらしく、田山の知っている人、つまり田山の所属する学会メンバーを例にとると、いずれも、田山からみたら雲の上のような先生だった。そんなレベルの会合だから、田山が参加するのは初めてだった。
 今回のトピックは海水面上昇問題で、教授は極地の氷が融ける影響について私見を述べる事になっている。その他に何を言うべきか研究室内で事前に相談した結果、水ぶくれ生物を使う方法を田山が提案する事も決まった。非公式の研究会ではあるものの、一応、議長役の長老格には予めアイデアを通して、議事がスムーズに進むようにしてある。こうして研究会の当日を迎えた。こうなると、一時期の氷モードはすっかり消え、多肉植物にかかりっきりになる。季節柄、ナメクジはお呼びではない。水ぶくれ植物への愛の復活は、ウンディーネとの雪融けも意味して、二人は元通り親密となり、挙げ句は、研究会のあとの学生・助手だけの打ち上げの可能性を考えて、その準備も一緒にするようになった。忙しくなった事もあり、彼女は平日も彼のアパートに泊るようになった。

 会議では議長と打ち合わせたとおり、意見の出尽くした所で田山は手を挙げた。いかに変人とはいえ、田山も人の子だ。蒼々たるメンバーの前に出て、上がり気味となる。そのため彼は、研究室内での俗称、つまり水ぶくれ生物=ウンディーネというのを使ってはいけない事ばかりに気が走って、ついつい
「水妖精を用いるのはどうでしょうか」
と、訳語のほうを使ってしまった。しまったと思った時はもう遅い。すっかり上がってしまった田山は、更にミスを重ね、本来なら
「水ぶくれ生物が水を固定するメカニズムを解明すれば・・・」
という説明が
「ウンディーネは愛を得て固化し、破局によって地下に閉じ込められたと言われます。そのメカニズムを解明すれば・・・」
と全然違うものになってしまった。泥沼である。
 もっとも、この手の言い間違いは研究者の卵には良くある事だ。一同は、彼の言うウンディーネや水妖精が何かの符牒なのだろうと推測した。そして、その符牒に当たる生物を田山が発見したのだろうと考えた。小さな会議だけに、大抵の先生方が事前に田山の研究内容を知っている。だから、ここはスルーするか、あるいは優しい言い方で
「確認したいのですが、そのウンディーネというのは、どういう生物ですか」
という質問の一つでもすれば、田山も間違いを修正するだろう。だが、そういう空気は、長老格の先生の一言で、座りの悪いものとなった。
「愛は地球を救う、か」
 この先生は、可哀相な田山を元気づけようとして、冗談を返した積もりだろう。だが、そういう冗談を言うには彼は歳を取り過ぎた。一同は、長老格の先生よりも早く、もっと気の利いた冗談を言うか素直に質問すべきだったと後悔した。そして、この手の後悔は、更に舌足らずな発言を呼び起こす。
「しかし、ウンディーネなど、どこを捜せば見つかる?」
気を使って、田山が発見したと思われる生物を、田山にあわせてウンディーネと言ってしまったのだ。ここで田山が多少の冷静さでも持っていれば、
「まだ採集はしていませんが、**島で見かけた事があります」
とでも答えて、崩れた話は修正されるだろう。だが、彼は彼で、長老格の発言で更にパニックに陥っている。自分が今しがた口にした水ぶくれ生物の俗称と、質問した先生のウンディーネを結びつける事が全くできなかった。
 代わりに思い出したのは、想い人のことだ。
(え、なぜ彼女が此処で出て来るの?)
と混乱しながらも、パニックでショートカットした頭は、彼女との採集の日々に飛び、そして、やっと、採集した多肉植物に思い当たった。研究室のサンプルでなく、アパートのほうを思い出したのは、置いてあるのがバスタブの中で、本来なら水が横たわっているところだからだ。
 廻り廻って、やっと正解に辿り着いたのは幸運と言えようが、慌てるあまり、答え方を間違えた。
「それが……わが家の風呂場に」
 ここまでくると、一同もさすがに興味が湧いて来る。ウンディーネとは一体何なのか? 奇妙な生物に違いない。会合の残りをさっさと片付けて、物好きな数人が田山のアパートに押し掛けた。道すがら、田山は話を修正しようとしたものの、その場にいた大学院生から
「うん、彼女は確かにウンディーネだよなあ」
とからかわれて、その機会を得ないままにとうとうアパートに着いてしまった。
 中に入ると、彼女愛用の運動靴が玄関にあり、風呂場から物音がしている。その時になってようやく、昨日、彼女とした会話を思い出した。夕方の打ち上げに備えて、彼女が準備をすると言っていたのだ。きまり悪い思いをしながらも、手の打ち用がなく、一同と共に風呂場に向かった。
 一同の見たのは、バスタブを水洗いしている美しい女性だった。バスタブから多肉植物を動かした跡に水を流しているだけ過ぎなかったが、そんな事情など田山以外は知らない。彼女は悲しげに瞳をうるませて訴えた。
『夫の浮気性をなんとかしてくださらない? 液体になったり固体になったり忙しくって』
まさにウンディーネだった。

 誤解を解き平謝りする田山に、一同は素晴らしい余興だったと慰めた。そして帰り際に
「奇麗な奥さんを泣かしちゃだめだよ」
と月並みの事を言って帰って行った。
 奥さん? そういえば、彼女は夫と言った。男女の関係など何もないのにだ。でも、誰もが内縁の夫婦と看做している。
 そう気付いた時、頭の中にペンギンの映像が浮かんだ。いつものように砂漠を行進する巨大ペンギンの群れだが、少し違っていた。そのペンギンは氷でなく水で出来ているという事だ。固体ではなく液体。それが砂漠を埋め尽くしていた。
 彼女の訴えは確かに田山に届いた。


おわり
written 2012-7
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あとがき: 本作で使っている「多肉植物やナメクジと水の関係」は完全なフィクションであるばかりでなく、むしろ間違った記述です。そのほうが話を自由に展開出来るので、あえてそうしました。代わりに、他の科学的解説は、(個人的な主観の上ですが)出来るだけ実態に沿うように努めています。